























一本の古い茶の木、樹齢不詳だがぽつんと雲南省の茶山に立っている。幹と枝に目立たない植物や小さな花をつけ、静かで美しい。「一本立ちで、孤独そうでしょう。」この山の持ち主の女性が私にこう語った。「その幹に生えているのは着生植物というもので、悪さはしないから、好んで着生させていて、もう木の一部を成している。」思わずシャッターを切った。「孤独」が、全てのはじまりである。この山には古茶樹は何千何百あるか知らないが、一本としてそれ独自の姿勢を持たないものはない。そんな一本立ちの木にも、他の木では表現できない形態があるものだ。さらに、小さな植物が生えてきて、「木」という孤独の生命体に新しいディテールがうまれる。ちっぽけな存在だが、いつの間に木のカラダと対話を始めて、そこには小さな宇宙が生まれる。それを見た私は一種の素朴な豊かさを感じた。人間もそうではなかろうか。実家から離れ、一人で生活することを「独り暮らし」とよぶ。しかし、けっしてひとりぼっちで生活しているわけでない。私たちがみな、一本立ちの木のように社会という「自然界」の中で、その一部を成している。そして私たちの中で生きているのは、自然(社会)そのものの働きなのである。「いのち」という「孤独さ」から始めて、いつの間にか「一本立ちの生命体」にたどり着くのである。